Praktisix 以前
 
「プラクチシックス(Praktisix)」は1956(昭和31)年、9月29日から10月7日、当時の西ドイツはケルン、ケルンメッセで開催されたフォトキナでVEBカメラヴェルケ・ニーダーゼトリッツ(VEB Kamera Werke Niedersedlitz)から発表され、製造はペンタコン、カール・ツァイス・イエナへと変わりながら「ペンタコンシックスT L 」まで発展し、1990年代に入るまで製造が継続されたことはトップページにも触れた通りである。
では、その「プラクチシックス」はどのようにして製造が開始されたのか?
この点について興味深い発言が1956年12月号の「アサヒカメラ」誌の「フォトキナを見て」という座談会の記事に掲載されている。
この記事の中で、日本光学工業の更田正彦氏が「プラクチシックス」について「レフレックス・コレレの製造を中止して、その代わりに作ったものだそうです」と紹介している。この発言は更田氏が直接現場の人間から聞いたと受け止められる。
そこには「レフレックス・コレレ」と「プラクチシックス」の緊密な関連性を伺わせるが、「レフレックス・コレレ(Reflex-Korere)」は戦前にフランツ・コッホマン、その後コレレヴェルケで製造されたが、戦後、コレレヴェルケはVEBベフォ(VEB Wefo)に吸収されている。そこで改良を加えて製造されたのが「マイスター・コレレ(Meister-Korere)」であるから、「レフレックス・コレレの後のマイスター・コレレの製造を中止して」というのが適切かもしれない。
「東ドイツ製カメラの軌跡」他の資料を参考に経緯に触れてみると、1951年にVEBベフォはVEBウエルタ・カメラベルケに吸収される一方、「マイスター・コレレ」の製造はVEBカメラヴェルケ・ニーダーゼトリッツに送られ、1952年頃まで製造されたという。
この経緯から見ると「プラクチシックス」は「レフレックス・コレレ」から始まる「マイスター・コレレ」の流れと完全に無関係と言い切れない。しかし、「マイスター・コレレ」が製造中止になったのが1952年頃だとして「プラクチシックス」が登場するのが1956年。となると、カメラヴェルケ・ニーダーゼトリッツは開発に4年を要したとも考えられるが、少々時間がかかりすぎるように思える。
この点について興味深い記事が再び「アサヒカメラ」誌の1957年夏季増大号「写真界ニュース」に掲載されていた。関連記事のタイトルは「東独カメラ工業の悩み・官僚式経営の弊害」であり、ここで半分答えが出ているようなものである。
この記事は、西独の「フォトマガジン(FOTOMAGAZIN)」が、東独ドレスデンで発行されていた「サクソニア新聞」に掲載していた記事が元になっているのだが、その中に「これ(プラクチシックス)はいうまでもなくベストセラーである。しかしこのカメラはなんと悲しむべき運命の下に生まれた製品であった」として以下のような出来事を紹介している。
1:カメラヴェルケ・ニーダーゼトリッツでは1951年初頭に製造プランを受けていた
2:しかし、幾度もの関係書類の取消や訂正の繰返しが続いた
3:これらの結果1952年末に最終的な製造命令が出た
4:西独で先行申請された特許の関係で再度仕切りなおしに
これらの結果として「プラクチシックス」の製造が遅れたということになるのだが、この記事の発見により、なぜ1951年にVEBベフォはVEBウエルタ・カメラベルケに吸収されたのに「マイスター・コレレ」の製造はVEBカメラヴェルケ・ニーダーゼトリッツに送られたのか、そして「マイスター・コレレ」が1951年から1952年頃という短期間しか製造されなかったのかという理由が若干ながら見えてくるような気がする。
「レフレックス・コレレ」と「マイスター・コレレ」の間には、機構的に見ても緊密な関連性を見出せるが、6×6センチ判の一眼レフカメラであること、幕の固定方法(四軸式)という点を除けば自動絞り機構にフィルム自動巻き止め、一軸式のB、1~1/1000秒の速度帯を持つフォーカルプレンシャッタ、バヨネットによるレンズ交換等を完備した「プラクチシックス」は近代的な中判一眼レフカメラという点で一線を画している。
しかし、更田正彦氏の言うように「レフレックス・コレレの製造を中止して~」という証言は会社の流れとして正しい。そういう点では、「プラクチシックス」は「レフレックス・コレレ」と「マイスター・コレレ」の後継機と言っても支障は無いだろう。
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